夕呼は、全てが変わり始めた日のことを思い出していた。
 それは一週間ほど前。白銀武と名乗る、知らない男が夕呼の目の前に現れた日。
 突然現れた武は、夕呼のことを親しげに先生と呼んだ。
 そして今度こそはBETAを倒しましょうと、どう考えても正気とは思えないような言葉を放ったのだ。
 夢物語のような台詞を聞いて、夕呼は目の前の男が恐怖に気が狂った脱走兵か、病院から脱走した患者か何かだと考えた。常識に照らし合わせて判断すれば、誰だってその結論を得る。
 当時の武は生身でBETAと戦うなどという離れ業をやってのけたためか、全身を負傷しており、頭を強打して記憶が錯乱していると考えられても仕方の無いような風体をしていたから尚更だ。
 だがしかし武は、その言葉を信じられないと言った夕呼に笑みを浮かべて答えた。

 ――霞は元気にしてますか? おとなしい奴だから心配です。
 ――そういえば空の上での作業は順調に進んでいるんですか?

 あっさりと語られた言葉は、聞く者が聞けばその意味を察することができてしまう。
 そして二つの質問全ての意味を悟ることができるのは、夕呼か、もしくは夕呼に近しいごく一部の人間のみであるはずだったのだ。もちろん厳重に情報を管理しているのだから、ただの人間では存在を知ることさえも許されない。
 にも関わらず、白銀武は、それらを知っていた。
 それは夕呼にとって、目の前の相手がただの誇大妄想狂ではないという事実を表していた。その瞬間に、夕呼の中で武への認識が改められる。頭のおかしい男から、何かを知っている男として。
 だが、警戒を強めた夕呼にまだそれでも足りないとばかりに武はまた笑った。
 その笑みがやけに親しげだったのが夕呼には印象的だった。
 武は先ほどと同じ調子で、更なる言葉を続けた。

 ――ああ、それと半導体150億個分の処理装置を手の平サイズにする研究は進んでいますか?

 それは最近、夕呼の頭を悩ませている懸案事項。
 おいそれとただの人が知ることができるはずがないトップシークレットに近い。仮にその作業が難航しているなどと反オルタネイティブ勢力に知られれば、その事実を梃子にしてオルタネイティブ4計画は不利に追い込まれる。
 だからこそ情報の秘匿には細心の注意を払っている。
 それなのに、目の前の白銀武は先ほどに続いて、このことまでも知っていた。
 その事実が夕呼の中で好奇心を呼び起こした。
 だから一先ず、精神異常者かもしれない武に言いたいことを喋らせてみることにした。
 そして知ることになったのだ。
 オルタネイティブ4計画の行く末。
 因果導体という存在。
 白銀武がこれまでたどって来た道筋。
 並びに一度はオリジナルハイヴを破壊し、因果導体から白銀武が解放されたという事実。そして最後に、解放された白銀武の統合体の中でも、鑑純夏とは共に行かず、この世界を守りなおそうと思った白銀武達の集まりこそが目の前の白銀武であると。
 その言葉を聞いただけなら、ただの妄想としか思えない。
 だが夕呼の目の前にいる武は、それを妄想だとは終わらせないだけのモノも数多く持っていた。
 いや、むしろ信じさせるだけの証拠すら持っていた。
 ――その証拠とは、以前のループで夕呼から教えてもらったという計算式。
 意味は自分にも理解できないが、先生が見ればきっと理解できると言って武が書き始めた四行程度の数式は、学の無い人間が見ればただのでたらめな記号の羅列にしか見えないだろう。
 だが、その数式を見て夕呼は体を雷に打たれたような衝撃を受けた。
 先ほどまで散々、その数式を含めた理論のことで悩まされていたのだ。
 見れば嫌でも思い出せる。
 それは延々と続く、半導体150億個分の処理装置を作るために必要な理論のほんの僅か、一部分でしかない。
 だがその中でもほんの数箇所だけが、夕呼が考えていたものよりも複雑になっていた。
 直感だが、その数式こそが正しいのだと、夕呼は科学者の本能的に理解できた。
 そして、そんな夕呼の反応を眺めながら武は式の横に、汚い図を追加して記入した。
 
 ――俺にはこの図も暗記できたけど、意味は結局分からなかったんですが、先生ならきっと理解できますよね?
 
 その言葉で半信半疑だった武の言葉を、当面は信じてみようと夕呼は考えた。
 現在、世界に夕呼以外で理論を完成させられる人間などいるはずがないのだ。
 それは自意識過剰でも何でもなく、厳然たる事実として。
 この方面での第一人者は自分であるという自信が夕呼にはあったし、自分以外に誰も理解できない理論であるからこそ、誰の助けを求めることもできずに作業は難航していたのだ。
 それをこうしてぱっと現れた学の無さそうな青年が、地力で解くことができるなどとは思えない。
 この理論は香月夕呼以外の誰も答えを出すことなどできないはずだったのだから。
 そして目の前の相手の背後に、自分よりもこの方面に詳しい第三者がいるなどという推測よりも、違う自分が導き出した答えの断片を目の前の男が記憶していただけという言葉のほうが、よっぽど説得力があるように思えた。
 もちろんこれは幸いなことに、エヴァレット解釈などの理論には造詣が深い夕呼であるからこそ、武を一先ず信じることができたと言える。これが世界のループや因果などといった事象を認めない、旧態依然とした科学者だったならば良くて武は門前払い。悪ければ営巣送りか銃殺だ。
 そのことを理解していたのか、取り合えず手元に置いて様子を見ると夕呼が言った時に武は安心したような笑顔を見せたのだ。
 当時のことは夕呼も色鮮やかに覚えている。
 白銀武という男は、その登場方法も含めて、夕呼が出会った中で最も濃い男だったのだから。
 ――そして、現在。


 理論を完成させるために数日。
 そこから理論を応用して作成した半導体。さらに、それを利用して新型OSの試作品を作れなどと武の無茶に付き合わされて五日。
 多忙な夕呼にとってはかなりの時間を費やして、武の説明したコンボやキャンセルといった研究者泣かせな機能が満載した新型OSが以前に完成したわけだが、どうやらそれから多少の修正を重ねてきた現行のヴァージョンであっても、発案者本人は納得していないらしい。
 よく夕呼に微調整を行わせるために部屋へとやってくる。
 今もまた武の頼みによって、夕呼はXM3の改良につき合わされていた。
「ふん、あんたも大概化け物やってるみたいね。――データ最深部に単機でたどり着いて、右腕部の小破以外の被害が無いなんて、この目で見ても早々信じられるものじゃないわ。しかも一度きりのまぐれならともかく、この前から何度も何度も。確認のために聞いておくけど、あんた本当に人間?」
「それは勿論。人間ですよ。それも世界が違えば、夕呼先生の下で勉強を教えてもらっていたような普通の学生です」
 ははっと親しみを感じる笑みを浮かべて、武は疲れた様子もなくシミュレーターから出てくる。
 その姿を見て夕呼は、自分とは畑の違う分野ではあるものの、白銀武もまた紛れも無い天賦の才を持った人間なのだと痛感せずにはいられなかった。
 にも関わらず、そんな夕呼の心情に気がつかないのか、武は軽い調子で言葉を続けてきた。
「ただ、やっぱりこれでもOSの反応が悪いです。俺は今まで使ってたのに慣れていましたから、本当にやり辛くて。多分もう少し微調整が終わったら、次は無傷でデータの最深部までたどり着く自信はありますよ」
「それ、冗談で言ってるわけじゃ、ないのよね?」
「はい。俺、馬鹿だったから夕呼先生に怒られてばかりでしたけど、戦術機の機動だけは褒めて貰ったことがあるんです。もう少しだけ調整してくれたなら、その時の機動の一端だけでも見てもらえるようになると思います」
 夕呼が何度探ってみても、武の言葉の中には虚勢の影すら見ることはできなかった。
 それはつまり、武は本気でそれができると言っているのだ。
 現状でさえ夕呼には理解しがたい変則的な機動で、戦術機の限界を見せ付けられているというのに、更に夕呼が手を加えれば、その上の動きを見せることができると。――中々にそれは、技術者の挑戦心をくすぐる言葉だった。
「へえ、これだけやっても本気を出せなかったって言うの? ――面白いじゃない。分かったわ。まずはXM3の再調整をやってあげる。その代わり、あんたにも手伝ってもらうから覚悟しなさい」
「分かってますよ。先生。俺に出来ることなら何でも言ってください。ただし、可能な限りXM3の完成を早めてくれるようお願いします」
 武は夕呼の隣に立ち、声のトーンをわずかばかり落とした。
 それだけで夕呼は武が何を言わんとしているのかを悟ることができた。
「……確か、あんたの話だと炙り出さないといけない奴らがいるんだったわね」
「はい。受身に回っていたら間に合わなくなるかもしれませんから」
「帝国の本土防衛軍を中心としたクーデターなんて、……この時期に馬鹿らしい」
 武により聞いた話によれば、近い将来に帝国軍の一部の勢力が現状の体制に反発してクーデターを起こす。
 そして決起する本人達は自らの意思で行っていると思っているクーデターは、その実、帝国と米国の勢力争いの一つに過ぎない。
 だというのに、そのクーデターによって、BETAと戦うことができる、人々を守ることができる多くの衛士達の命が失われる。
 合理的に、あるいは感情的に考えたとしても、それは到底納得できるものではない。
 最前線でBETA達と戦わなければならない立場にある者にとってクーデターは損失でしかないからだ。
「俺も馬鹿らしいとは思いますよ。だけどクーデターは確実に起きるはずです」
「分かってるわよ。あたしだって少しは調べてみたんだから。――情報省にかぎ付けられないように、詳細までは探れなかったけど、あんたの言ってたことが本当らしいってことぐらいなら調べられた」
 そこで夕呼は武から視線をはずして、無機質な部屋の天井を眺めた。
「意外や意外ってやつ? 想定していた以上に、帝都守備隊を中心として蔓延しているみたいね。しかも、あんたの話を聞くに、中々練度も高い衛士が多いらしいじゃない。そんな連中が主義主張に没頭して死ぬのも無駄なら、それに付き合わされてこの基地の人間が死ぬことも無益だわ」
「その考えには同意しますけど、もう今更とめることはできませんよ。横浜基地に俺が来た時から、クーデター派は爆発寸前だったはずですから」
「分かってるわ。――だから被害を最小限にするために、XM3の完成が必要だって言うんでしょう? 既存のOSを積んだ不知火とのシミュレーションでの撃墜比が現時点で六対一。米国のF-22Aに匹敵しかねない可能性を秘めたOSを餌にすれば、隠れてるクーデター分子を炙り出すことができる」
「はい。XM3の情報に関しては色々と派手なことをやってきましたから、クーデター派の耳にも入っていることでしょう。ここで更にXM3を、クーデター派と敵対する可能性が高い斯衛の一部に技術提供の名目で貸し出すとでも情報を流してやれば、十中八九、あちらは行動を早めるはずです」
 夕呼の台詞を繋げるために、武は淡々と言葉を続けた。

 ――クーデターの発生を、意図的に早める。

 それは、いつまで自分の身がもつか分からない武が発案した策だった。
 実際に斯衛にXM3を渡さずとも、提供するという情報を流しただけでクーデター派は慌てることになるだろう。
 それほどにXM3は驚異的な技術であるし、そう判断されるように、夕呼はXM3の性能の高さを故意に帝国軍へと水面下で喧伝してきた。特に武が操る戦術機の機動のでたらめさに関しては、現時点で少なくない数の帝国軍首脳部や衛士に非公式な形で知れ渡っている。
 常識を突き破った三次元的な機動が発揮する、戦術機の強さ。
 それが多少なりとも頭に入っていれば、多少の準備不足には目を瞑ってでも、クーデターの決行時期を早めるだろうというのが、夕呼と武の共通した認識だった。そして、その結果を導き出すための工作も外部、特に米国に知られないように進めている。
「そうね。それで不穏分子がこちらの思惑に乗ってくれれば、言うことはないわ。……手のひらの上で踊らされてる首謀者は確か、第一戦術機甲連隊の沙霧とかいうのだったかしら? 白銀、あんたそいつのこと知ってるって言ってたわよね。細かい情報なんて無視して、あんたの直感としてはどう?」
「あの人は潔癖な帝国軍人ですが、それだけに状況を狭めて判断し、早急に結論を出そうとする傾向があります。XM3が斯衛に提供されるという情報を入手すれば、それこそ神速で動くでしょうね。可能性としては逆に警戒して水面下に潜り込むってのもあるにはあるんですけど……」
 そこで武は、言いにくそうに口ごもったが、夕呼には武の内心が即座に理解できた。
 相手の喉下で留まっている説明を代わりに口に出す。
「――そんな判断するようなやつなら、そもそもこの時期にクーデターなんて起こさないってことよね」
 武の言葉に、思案しながら相槌を打った夕呼は、再び横に並んだ武に視線を向けた。
「まあ、少なくとも俺はそう思います」
 武は武で、じっと正面の一点を見据えていたために、夕呼と視線が交わることはない。
 痛みにでも耐えているのだろうか、平静な態度ではある武の内面がどうなっているのか、夕呼には分からなかった。
 推測することはできるが、答えを聞いたとしてもどうすることもできない種類の事柄である以上、無意味でしかない。
 夕呼はそこで背を翻した。
「ま、ともかく予定通りってことね。クーデターが起こった時には、あんたには真っ先に沙霧とかいうのを潰しに行ってもらうから、準備だけはしておきなさい」
 話は終わりとばかりに、後方の姿が見えない武へと、ひらひらと手を振る。
 そんな夕呼に向かって武は静かに言葉を返した。
「分かりました。今更あの人達とやり合うために準備が必要とも思えませんが、お望みならもう少し詰めてみようかと思います」
「そう。――その言葉がまるで虚勢に聞こえないのが、あんたの怖いところだと思うわ、白銀」


   /


 社霞は異能者である。純粋な意味で自分が人であるのか、自信がない。
 BETAと人類が意思疎通を行うために作られた翻訳機。
 時折、自分のことを自然とそのように考えてしまうこともある。
 データ上の父も母も、オルタネイティブ計画の下に改良を重ねられ、自らもまたその目的のため人工的に産み落とされた。そして今に至るまでそうあるように教育を受けてきたのだから仕方がないことなのかもしれない。
 だがそんな霞であっても、最近になり初めて、自分よりも異常な人間と出会うことになった。
 横浜基地へと突如として現れた、その男の名前は白銀武。
 一つの体の中に、いくつもの思考の断片が凝縮して混在している異常者である。
 人類の既存の手段では交信を行うことができないBETAとコミュニケーションを行うために作製された霞には、リーディングという一般人には持ち得ない技能がある。その技能を用いて武の思考の一端を探ろうとすれば、その度に霞は深遠の彼方でも覗き込んでしまったかのような寒気に襲われる。
 そこには途方もないほど様々な感情が乱れ混じっていた。
 全身に襲い掛かる痛みに対する悲鳴。
 記憶の関連付けができないために詳細までは分からないが、大切に思っている誰かを想う暖かい感情。
 燃え滾るコールタールのように黒くて熱いBETAへの憎しみ。
 そして理由も分からず、霞や夕呼といった相手に向けられる親愛の情。
 白銀武は、喜びながら怒り、哀しみならが楽しんでいた。
 そして痛みを内心で悪態をつきながらも耐えていた。
 感情がごちゃごちゃに混ざっているために、どれが本心であるのかを理解することができない。いや、そもそもどれか一つだけ強い思いというものがあるのかすら怪しい。
 まさしく、異常な、精神状態。
 統合失調症の患者をリーディングした場合に似たような状態を観察したことが霞にはあったが、武の場合はそれよりも格段に重症だった。一つの意識が乱れて分断されているわけではなく、似ているが違う意識が幾つも乱立しているのだ。
 その差こそが武の感じる痛みであり、異常性の原因となっている。
 そして視覚的に見ることができないその異常性は、霞を強く怯えさせた。
 例えるならば、蜂の巣だろうか。小さな巣には無数の穴があり、その中では同じ姿形の幼虫が蠢いているような、生理的に嫌悪感を覚えてしまうようなモノ。そんな存在と生まれて初めて出会った時、どう対処すればいいのか霞には分からなかった。
 だから霞は現在も武のことを避けている。
 夕呼の命令があって関わらなければならない場合以外は、極力、武と遭遇することがないように地下十九階に閉じこもっていた。
 この部屋の中央には中身が何も入っていないシリンダーがひっそりと存在している。
 オルタネイティブ4に関連する機材の中でも、秘匿性の高いモノが安置されるこの部屋には、それ以外は何もない。

 ――何も存在しないこの部屋になぜ自分はいるのだろうか?

 ふと、一瞬だけ素朴な疑問が思い浮かんだ。
 何かここには、ついこの間まで大切なものがあったような気がするのだが、思い出せない。
 現実としてここには何も存在しない。何も収められていないシリンダーが一つだけ存在しているだけで。
 だが、それと同時に何故かここにいたくなることも事実であって――。
「……使われていない、シリンダー?」
 そこで霞は違和感の正体に気がついた。
 オルタネイティブ計画に関連する機材が保管されているこの部屋で、何にも使われていないただのシリンダーが放置されている。
 それは酷い矛盾だった。これまでその事実に気がつかなかった自分に対して疑問を覚えるほどに。
 完璧な合理主義者である夕呼がゴミをこんな部屋に放り込んでおくとは思えない。
 このシリンダーが、わざわざこの部屋に置かれていることには必ず意味がある。
 更に言えば、間違いなくシリンダーはオルタネイティブ計画と関係しているはずなのだ。
 だというのに、なぜ自分はこのシリンダーの用途を知らないのだろうか。霞の心に疑問が浮かぶ。
 喉元に何かが引っかかっているような気持ちの悪さがあった。
 自分はその答えを知っているのに、思い出せない。そんな奇妙な確信だけが胸にある。
 しばらくの間、霞は疑問の答えを探していた。
 だが、やはり納得のいく回答を探し出すことはできなかった。
 時間が経過する。しかし、それでも何も思い浮かばない。
 そこから更に時間がたった後、不意に開いた扉の音で、ようやく霞は答えを探すことを中断した。
 突然の闖入者の姿を眺める。
 その相手は、この基地の実質的なトップと目されている人物だった。香月夕呼。オルタネイティヴ4の最高責任者。
「社、今更こんなところで何してるの?」
 シリンダーの傍で微動だにしない霞の姿を目に留めた夕呼は意外そうな声を出した。
 まるで、もうここに霞がいる必要はないはずなのにとでも言いたげな声。
 それは、霞の疑問の答えを知っているようにも聞こえる台詞だった。
 少しばかり逡巡した後に、霞は胸のうちの違和感について尋ねることを決めた。
「……質問があるのですが」
「質問? ――何を?」
「……このシリンダーは何のために保管されているのでしょうか。不思議と、この近くは落ち着くような気がしますが、理由が思い当たりません」
 そう尋ね終えた直後に夕呼は面白そうに目を細めた。
 横浜基地副司令官にして天才物理学者である夕呼は、自らの知識欲を満足させるような事象に出会うと、このような表情を浮かべることが多々ある。
「どうも忘れてしまったらしいわね。興味深いわ。やっぱり、記憶の関連付けを毎日行っていることが差になったのかしら?」
 夕呼は霞の疑問を聞いてから、腕を組んで意味の分からない推測を口に出し始めた。
 そのまま霞に返答することなく言葉を続ける。
「あの時、白銀が来るまでは確かに社は●@▼×―のことを覚えていたはずなのに、今は完璧に忘れてしまっている。これが因果律の楔を解いて別世界を構成するということ? それとも――」
 そして夕呼は本格的に思考に没頭して何事かを考え始めた。
 口に出された言葉の意味は霞には理解できない。以前なら分かったような、気持ちの悪い違和感の正体さえ分かれば、夕呼の言葉を理解できるような予感がするが、やはり今は理解することができない。
「社、Ιг¢■―の名前について聞き覚えがある?」
 そして幾らかの時間が経過して、唐突に夕呼はそんな質問を口にした。
 だがその問いかけをうまく聞き取ることができない。
「聞こえなかったみたいね。もう一度ゆっくり言うから、よく聞きなさい。――Ψ>z▲―について覚えてる?」
 そしてもう一度、一言一言区切って問いかけられた言葉も、霞には理解することができなかった。不思議なノイズにしか聞こえない。だから、無言で小さく首を横に振る。その反応に、夕呼は満足そうに頷いた。
 霞には何が何なのか分からない。
「……どういう意味なのでしょうか?」
「恐らく、この世界から一つの因果が零れ落ちてるってことよ。唯一の例外は白銀で、私に関してはあいつと一緒にいる時間が長いから補完されていることに加えて、起きてる間は理論にかかりっきりでずっと記憶を関連付けている状態だから効果が無かった。そんなところじゃない?」
 同意を求められてもやはり、霞では夕呼の言葉を理解することはできない。
 むしろ夕呼には最初からその反応を予想していたような節すら見える。
 腑に落ちず思案するために黙り込んでいる霞に、夕呼は続けて言葉を発した。
「まあ社が違和感を覚えている原因なら分かるわ。だけど、多分ここで思い出そうとしても無駄よ。それにきっと思い出したからといって意味は無いと思うわ。だって切り札になるはずだったЪ◆Я◎―は、もういないんだから。今は代わりにやって来た白銀ってカードを使わないと」
 相変わらず、夕呼は理解できないことを口走る。ただ一つ分かるのは、霞に対して疑問を忘れろと言っているという一点だけだった。――そしてなぜかその提案には頷けない自分がいることに、霞は気がついた。
「あら、社にしては意外に固執するじゃない。そうね、違和感の答えを知りたいのなら、どうすればいいのか教えてあげる。――白銀と会って話でもしてみなさい。あいつの頭の中をリーディングで覗き込んでみたら、多分答えは分かるはずよ」
「……白銀さんを、ですか?」
「ええ。多分あたしから幾ら聞いたって、認識することはできないだろうから。その点、あいつなら無駄にそういった因果が詰まってるはずだから、社ならうまく読み取れると思うわ」
 そこで夕呼は霞が知らない何かを思い出すように、何も入っていないシリンダーを観察した。
 だが、すぐに目をそむけてしまう。このシリンダーを確認しただけで目的を達したかのように、霞の目には見えた。
「まあ、そういうことだから疑問を解くつもりがあるなら早めに白銀に会いに行きなさい。――あんまり行動に移すのが遅れてしまったら、疑問自体を忘れてしまうかもしれないわよ?」
 冗談めかした夕呼の言葉の響きは不自然に重く、最後まで霞の耳に残った。



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